林淳一さんの思い出
私は、物理学習会の、はじめの方と、おわりの方へは参加していませんので、日教組の教研集会と科教協大会に関わる、林さんの印象を書いてみます。
私は中学4卒後、小学校の代用教員をしていましたが、教員免許を取るために、東京理科大の二部へ通いました。しかし、そこでは高校と中学の免許しか取れなかったので、やむなく、そちらへ鞍替えすることになります。初任は野田高の定時制で、ここで初めて、私の物理学習が始まるのです。教研、科教協、物理学習会(毎月、林研で持たれました)、それに地域に作った東葛サークルが主な学習の場でした。
70年の科教協宮城大会では、初めて公害が問題になりました。野田では、近くの工場の廃棄物から高濃度のカドミウムが検出され、これを機に、地域の水質汚染の測定を始めました。73年の山形教研では、盛口襄さんと話し合って、化学教育の再検討を目的に、アルケミストの会を発足させました。日教組教研の理科分科会は、林さんを中心に、科教協のメンバーで立案・運営されていました。私は助言者の林さんから推薦されて、司会者として、76年大津、77年埼玉、78年沖縄、79年茨城の全国教研に参加しました。この集会では、林さんはロビイスト(lobbyist)としても多忙に見えました。宿泊所では、ロジスト(lodgist?)としても同様でした。特に、数学分科会の森さん(京大)との対話は、「行事」の一つでした。どちらかといえば、森さんの問いに林さんが答えるという形が多かったように思いますが、教育、科学、哲学と話題は広汎で、夜遅くまで続いていたような記憶があります。集会の後には、日教組教育研究全国集会報告<日本の教育>の執筆にご苦労があったようです。
70年後半、私は組合の東葛支部長になり、戦術会議でお会いした千葉南支部長の稲葉正さんに推薦されて、県立千葉高へ転勤することになります。稲葉さんは、定年前に退職されて、千葉市の大気汚染をなくす闘い、青空裁判(川鉄訴訟)に専念されたのでした。 この間、私は科教協の事務局長として、80年山梨、81年熊本、82年三重、83年東京、84年岡山と、<煙草とコーヒー浸けの林委員長>と、全国大会の仕事にかかわることになります。学習指導要領が改訂される毎に、国家と教育権の主張を強めていく文部省に対して、国民の教育権を守ろうという民主的教育集団のリーダーとして、常に、重い精神的負担を背負い続けていた林さんには、物質的支えとして、これらのものが必要だったのかもしれません。身体的にはよくないことが解っていて止められなかったのは、それこそ、命懸けで仕事を続けていた、ということになりましょうか。
最近、林淳一さんの<自然科学・教育論 人間は自然をどうとらえてきたか>が出版されました。林さんの生涯の仕事をまとめたものですが、最後の一部に、林さんの周囲のものたちが、林さんの思い出を書きました。これは私の部分です。